1999年ルカの福音書第3講
罪の赦しと新しい人生
御言葉:ルカの福音書5:17?32
要 節:ルカの福音書5:32「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
先週、私達は漁師であるシモン・ペテロを、人間を取る漁師として召されたイエス様について学びました。今日学ぼうとする御言葉には二つの種類の罪人が出ています。中風をわずらっている人と取税人レビです。中風の人はいつも横になって他人に頼り、無気力に生きている罪人でした。取税人レビは体は丈夫ですが、心が病んでいる罪人でした。イエス様は彼らの罪を赦し、新しい人生を生きるようにしてくださいました。イエス様によって中風の人は起きて自立的な人生、生き生きとした人生を送るようになりました。レビはイエス様の弟子、セイントマタイになりました。この時間、私達も罪の赦しを受けて、新しい人生を送ることができるように祈ります。
?.友よ。あなたの罪は赦されました(17-26)
17節をご覧下さい。ある日のこと、イエス様が教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていました。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていました。彼らがそこにすわっていたのは、イエス様の教えに聞き従うためではなく、イエス様のことばじりを掴み、訴えるためでした。イエス様は、主の御力をもって、病気を直しておられました。
人々がイエス様の教えを聞いて恵みを受けている最中、思いがけないことが起こりました。18-19節をご覧下さい。そこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来たのです。そして、何とかして家の中に運び込み、イエス様の前に置こうとしていました。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つかりませんでした。普通このような状況ならイエス様の所に運ぶことを諦めてしまうでしょう。「今日は仕方がないな。あしたも、あさってっもあるからね」と言って帰ってしまうでしょう。しかし、彼らは違いました。彼らは諦めず、何とかして中風の人をイエス様のところに連れて行こうとしました。その時、一つの方法がひらめきました。それはつりバカ作戦でした。彼らはさっそく屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエス様の前に、つり降ろしました。その時、集まっていた人々の反応はどうだったのでしょうか。彼らはみな一言ずつ文句を言い始めたでしょう。「おい、お前ら。何をやっているの。早くやめなさい。さもないと不法侵入罪で訴えるぞ」そのように彼らの行動を非難したに違いないと思います。
しかし、イエス様は彼らの行動から何をご覧になりましたか。20a節をご覧下さい。イエス様は彼らの信仰をご覧になりました。イエス様は彼らの信仰をご覧になって大いに感動されたでしょう。人はうわべを見ますが、主は心を見られる方です。イエス様は病人をつり降ろして見つめている彼らの表情から愛と熱意が込められた信仰を見出されました。それでは彼らの信仰はどんな信仰でしょうか。
第一に、彼らはイエス様の癒しの力を信じました。中風は医学が発達した今日でも難病です。当時は言うまでもなく不治の病でした。本文の中風をわずらっている人の病症は床に寝かされて動けないひどい状態でした。しかし、彼らは、イエス様はその友人を癒すことができるし、癒してくださることを信じました。
第二に、病人に対する熱い愛がありました。中風を患っている人は見るだけでも負担を感じさせられます。しかし、彼らは病人に対する熱い愛がありました。屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、イエス様の前に、つり降ろしたことに見られるように、一人の人間に対する彼らの愛は理屈ではありませんでした。彼らは言葉や口先だけで愛することをせず、行ないと真実を持って愛したのです。
第三に、障害に挑戦する信仰です。彼らは障害にぶつかった時、落胆して諦めませんでした。彼らは何とかしてその障害を乗り越える道を探しました。そして、その障害に挑戦しました。友達を癒すために人々から文句を言われることくらいは気にもしませんでした。彼らは不屈の挑戦精神を持って障害を乗り越えました。
私達がひとりの兄弟をイエス様に導こうとする時にも障害があります。アルバイトやサークル活動、勉強などで忙しい学生達は聖書勉強にあまり興味を示しません。キャンパスの快楽的で利己的な雰囲気、霊的な無関心などが障害になります。親や先輩達はせっかく聖書勉強を始めた兄弟に対して「お前、変なところに入ったな。早くそこから出たほうがいいよ」と恐れを植え付けます。しかし、屋根の瓦をはがすほどに続けて祈り求めること、挑戦する熱意や信仰、兄弟に対する愛があれば、どんな障害も乗り越えることができます。ですから、障害が問題ではなく、牧者の信仰が問題なのです。
使徒パウロは世界宣教のために何度もローマに行こうとしましたが妨げられました。しかし、彼は諦めることなく、続けて祈り求めました。その時、彼は囚人としてローマに行って福音を宣べ伝えることができました。私達にイエス様の力に対する信仰と兄弟達に対する愛、そして福音のみわざに対する熱意があれば決して不可能なことはありません。主が私達に行動する信仰と一人の兄弟に対する愛とどんな障害にも挑戦するファイティングスピリットを与えてくださり、今年全同労者達が1:1羊を得て主に導くことができるように祈ります。私達が信仰によって障害を乗り越えることによって実際的な信仰を体験し、信仰の勇士として成長することができるように祈ります。
それでは彼らの信仰をご覧になったイエス様は、中風をわずらっている人に何と言われましたか。20b節をご覧下さい。「友よ。あなたの罪は赦されました。」イエス様は肉体の中風の病気より霊的な中風の病気である罪の問題を根本問題としてご覧になりました。それでまず彼の罪の問題を解決してくださいました。彼にとって中風の病気は深刻な問題です。この病気さえ直れば、きっと幸せになるだろうと思っていたでしょう。しかし、罪の問題が解決されなければ、中風の病気が直っても彼は以前とあまり変わらない人生を送るはずです。人間は元々自立的で、開拓する者として造られました。しかし、中風の人は心ならず無気力に周りの人々に依存する生活を送ります。何でも他人のせいにしながらつぶやきます。それは罪の問題が解決されてないからです。しかし、内面の罪の問題が解決されると、どんな状況の中でも喜びと感謝に満たされた幸せな人生を生きるようになります。生き生きとした自立的な新しい人生を生きるようになります。そういうわけでイエス様はまず彼の罪の問題を解決してくださったのです。
ところが、この罪の問題はどのようにして解決することができるでしょうか。人々は罪から来る苦しみを忘れるためにお酒を飲んで狂ったように大声で歌います。一生懸命スポーツをしたり、パチンコをしたりします。毎日一回良い行いをしようと努力します。しかし、それらのあらゆる努力によっても罪の問題は解決されません。良い行いや修行や律法を守る禁欲的な宗教生活によっても解決できません。罪の問題は神様から赦していただくことによってのみ解決されるのです。なぜ、そうでしょうか。マタイ18:23?34節でイエス様はたとえで人と人との間の罪は百デナリに過ぎませんが、神様に対する人間の罪は一万タラントであることを教えてくださいました。一タラントは6000デナリに相当します。一デナリは当時の一日分の労賃に相当します。ですから一万タラントは一人の労働者の17万年分の給料に相当します。日本のお金では六千億円くらいです。それは人間の力によっては返せない金額です。結局人間はこの借金のために神様の御前に立って清算が始まると、裁かれ滅びるしかありません。ですから人間がこの借金から解放される唯一の道は免除してもらうことです。イエス様はこのような人間を哀れみ、救うためにこの世に来られました。このイエス様に信仰によって出て行く時、主は私達の罪である一万タラントを免除してくださいます。「友よ。あなたの罪は赦されました」これは死刑宣告を受けた人に無罪を宣布することと同じです。この罪の赦しを受ける時、私達は自分を重く圧し掛かっていた罪の重荷から解放され、真の自由と喜びを味わうことができます。イエス様は罪を赦す権威を持っておられる方です。
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めました。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」「あなたの罪は赦された」という言葉は、当時の宗教指導者たちにとって非常に衝撃的なものでした。彼らは神様のほかに、誰も罪を赦すことができないと思っていたからです。確かに彼らの見解は正しいです。しかし、彼らはイエス様がこの世に来られた神様であることを知りませんでした。彼らはイエス様の御言葉と力あるわざを通してイエス様が神様であることを悟らなければなりませんでした。しかし、彼らは高慢と妬みのゆえに霊的な目が暗くなっていました。そこでイエス様はご自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを悟らせるために中風の人に言われました。「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰りました。これを見た人々はみな、ひどく驚き、神様をあがめ、恐れに満たされて言いました。「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」罪の赦しを受け、人が変えられることは驚くべきことです。このような驚くべきことが今日も起こっています。誰でも罪を赦してくださるイエス様の所に信仰によって出て行き、自分の罪を告白すれば、イエス様は私たちに言われます。「友よ。あなたの罪は赦されました。」罪を赦す権威を持っておられるイエス様を賛美します。
?.わたしについて来なさい(27-32)
27節をご覧下さい。この後、イエス様は出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留められました。取税人は主にローマ帝国の税金を徴収する人のことです。彼らは実際に国家会計に納金する以上のものを徴収することによって一般の人々から、強奪者と呼ばれ、憎しみの的となっていました。ユダヤ人社会の仲間入りを許されず、友人となることさえも嫌われていました。遊女達とともに公認された罪人として扱われ、遠ざけられました。レビはこのような社会の雰囲気の中で寂しく生きている取税人でした。なぜ、彼はこんなにも嫌われる取税人になったのでしょうか。人は誰でも人々から尊敬される人生を送ることを願います。きよく、正しく生きることを願います。しかし、現実は願い通りになりません。レビが住んでいる時代はイスラエルがローマの植民地になっている時代でした。このような厳しい現実の中で生きていくためにはお金を儲けなければならないとレビは思ったかも知れません。お金さえあれば幸せになれると思って取税人になったかも知れません。ある日、同胞から裏切られてローマ側に立つ取税人になる決心をしたかも知れません。あるいは幼い時からいつもお金に困っている親を見ながら自分は絶対に金持になると決心したかも知れません。とにかく、レビはお金を儲けるためにそんなにも嫌われている取税人になりました。しかし、彼は取税人になったために多くのものを失ってしまいました。選民としての自負心も同胞も失い、友達や良心を失いました。お金を儲けるために彼は利己的な者になり、無慈悲な者になりました。その結果、彼は金持になりました。彼には足りないものがなさそうに見えました。しかし、その満足はしばらくだけでした。彼の生活は幸せになるべきでしたが、段々空しくなりました。彼は同胞を裏切った罪意識によって苦しみました。彼は苦しんでいる時、真実に話し合ってくれる友達もいませんでした。彼は孤独でした。彼はやっとお金が自分を幸せにしてくれないことがわかりました。利己的な人生が彼を不幸にさせていることがわかりました。しかし、彼がその事実をわかった時には自らの力によってはそこから免れない状態でした。彼は苦しみながら自分をそこから救ってくださるメシヤを待ち望んでいました。まさに彼は失われた一匹の羊のようでした。人々はこの取税人レビに目を留めませんでした。税金を納める時以外には取税人に会うと向きを変えました。当時宗教指導者達は彼に会うとつばを吐きました。そして「あの奴は人間のくずだ」と言いました。しかし、イエス様は彼の内面の孤独と罪意識によって悩んでいる心に目を留められました。イエス様は彼を哀れみ、深い関心を示されたのです。そしてイエス様は彼に言われました。「わたしについて来なさい。」それではこの御言葉がレビに与える意味は何でしょうか。
第一に、新しい人生の目的と方向を与える御言葉です。人生の目的と方向が何かは非常に大切なことです。人生の目的と方向を正しく掴んでいる人とそうでない人の生活は、初めはあまり違いがありません。しかし、次第に大きな違いをもたらします。人間は元々神様の栄光のために生きる存在として造られました。それで人間は神様の創造の目的に従って神様の栄光と隣人のために生きる時、真の喜びと幸せがあります。自分だけのために利己的な生活をする時、幸せになりそうですが、そうではありません。しかし、神様の御言葉に従って神様の栄光のために生きる時、いのちを生かす喜びと生きがい、幸福があります。ところでレビはこの幸福の秘訣を知りませんでした。自分のために生きる時、幸せになると思って利己的で自己中心的な生活をしました。その結果、多くのお金を所有することはできましたが、もっと大切な人間性を失い、存在意味を失いました。結局、神様に裁かれ滅びるしかありませんでした。イエス様はそのような彼に「わたしについて来なさい」と言われました。すなわち、イエス様に見習う生活をするように新しい方向を下さったのです。彼がイエス様に従った時、失った神様のかたちを回復するようになりました。
第二に、イエス様の弟子になりなさいという御言葉です。「わたしについて来なさい」という御言葉はレビをイエス様の弟子として召された言葉です。取税人が弟子になることは人々から非難される種となります。他の弟子達の間でもそのような問題児を受け入れたくないと思い、内部の分裂が起こる可能性もあります。それではなぜイエス様は彼を弟子として召されたのでしょうか。それは彼を哀れんでくださったからです。イエス様の弟子養成は事業ではなく、ひとりを哀れむことから始まります。イエス様は彼を哀れんでくださっただけではなく、彼に驚くべき希望を置かれました。人々は彼には希望がないと思い、捨てましたが、イエス様は彼に驚くべき希望を置かれました。イエス様は彼から将来霊的に病んでいる数多くの人々を抱いて仕える立派な神様のしもべになる可能性を見出されました。そして彼のすべての咎と罪を担ってあげる決心をなさいました。イエス様は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない愛と哀れみ深い方です。この主の召されによって彼はすばらしいイエス様の弟子になるのです。ですから「わたしについて来なさい」という御言葉は取税人レビに臨まれた救いの御声です。この召されによってレビの人生は180度変わりました。この召されは彼に臨まれた大きな恵みでした。
それではイエス様に召された時、レビはどうしましたか。28節をご覧下さい。 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエス様に従いました。レビはイエス様について行くために安定した職場も、はかない世の楽しみも捨てました。イエス様に従うために自己中心的な生活を捨てました。彼は真実に悔い改めて新しい人生を出発しました。彼は何もかも捨てましたが、宝であるイエス様を得ることができました。
イエス様に従ったレビの喜びはどうでしたか。29節をご覧下さい。そこでレビは、自分の家でイエス様のために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていました。レビの心に驚くべき変化が起こりました。彼は自分を弟子として召されたイエス様に対する感謝と喜びに満ち溢れていました。それで自分の家でイエス様のために大ぶるまいをしました。そこに彼の仲間たちである取税人達や、ほかに大ぜいの人々も招きました。彼はイエス様に出会った喜びを他の人々にも分かち合いたいと思いました。レビはひとり寂しく生きていましたが、皆とともに喜びを分かち合うことを知るようになりました。「受けるより与えるほうが幸いである」ことを知るようになりました。
これを見たパリサイ人たちはイエス様の弟子たちに向かって、つぶやいて言いました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」彼らには罪人達に対する愛がありませんでした。しかし、罪人に対するイエス様の姿勢はどんなものですか。31,32節をご覧下さい。そこで、イエス様は答えて言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」イエス様は罪人を医者の目でご覧になりました。立派な医者は病人を判断したり、裁いたりしません。彼を哀れみ、どうすれば癒すことができるかを考えて最善を尽くします。このようにイエス様は霊的な医者として罪によって病んでいる人々を癒し、生かすためにこの世に来られました。
それではイエス様は彼らをどのようにして癒してくださいますか。「罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです」ここで悔い改めさせることは病んでいる心を癒すことです。レビは利己心のために心が病んでいました。彼は他人を考えることも、他人のために自分を犠牲にすることも知りませんでした。自己中心的であって他人を顧みませんでした。イエス様はこのように深く病んでいる彼と3年間ともにおられながら彼の罪によって病んでいる心を癒してくださいました。イエス様の癒しによって彼は癒され、新しく生まれました。取税人レビは山上垂訓を書いたセイントマタイになりました。
世の中にはレビのように外見上は丈夫に見えても心が病んでいる人達が多くいます。ある人は情欲の病にかかって淫乱な考えのために苦しみ、情欲的な行為を通して自分のからだを汚しています。ある人は運命主義と敗北感のために病んでいます。ある人は人に対する不信感のために自分の世界に閉じこもっていつも一人ぽっちになっています。ある人は親に対する憎しみという病気にかかっています。ある人は友達に対する妬みのために苦しんでいます。ある人はつぶやきの病を患っています。ところが、問題は深く病んでいるのにも関わらず、自分が病んでいることさえも知らないことです。罪によって苦しんでいながらもその苦しみから解放される方法がわかりません。
先週日曜日バスケットボール試合をしている途中、洪ヨセフ宣教師は腕が脱臼しました。病院でレントゲン写真を撮ってみると確かに腕の骨がはずれていました。それを元の位置に戻すまで洪ヨセフ宣教師は少しだけ腕を動かすことだけでも非常に痛みで苦しみました。ところが、医者の治療によって骨が元の位置に戻った時、うそのように痛みがなくなりました。ヨセフ宣教師の顔にもやっと笑顔が戻りました。
医者は病人のどこが悪いかを調べるためにレントゲン写真を撮ったり、いろいろな方法で診察します。私達が自分の病気を知るためには、鏡のような聖書の御言葉に自分を照らして見なければなりません。本気で聖書を学んで見ると、誰でも病んでいる自分を認識することができます。自分が病人であることを知っている人は医者を必要とします。このように自分が罪によって病んでいることがわたかった人はそれを癒してもらうために霊的な医者であるイエス様のところに出て行くようになります。罪という病は世のどんな薬によっても、立派な精神科の医者によっても癒すことができません。その病気はただ罪人を招くために来られたイエス様だけが癒すことができるのです。イエス様はどんな病人でも愛によって癒され、生かされて新しい人生を生きるようにしてくださいます。このイエス様によって罪が赦された人には罪による苦しみがなくなり、笑顔が戻ります。
結論、今日も私達とともにいてくださり、中風の人のようで取税人のような私達を罪に定めないで迎え入れ、癒して新しい人生を生きるようにしてくださるイエス様の救いの愛を心から賛美します。今年、罪によって病んでいる多くのキャンパスの兄弟姉妹達がイエス様に会って癒され、新しい人生を送ることができるように祈ります。